果てしなき帰途の果に

yoakeroの雑文コーナー

太宰治『斜陽』

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

太宰治の有名な長編小説。貴族が没落する話。舞台は昭和初期だったと思う。斜陽族とかいう言葉を生んだらしい。明日の授業のために読んでます。
昨年は、何も無かった。一昨年は、何も無かった。その前のとしも、何も無かった。そんな面白い詩が、終戦直後の或る新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。けれども、私は、やはり自分勝手なのであろうか。私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思えない。ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すっかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、ヨイトマケをやって生きて行こうと思う事があるくらいなのだ。
或る日、私がモッコかつぎをしていると、男生徒が二三人、私とすれちがって、それから、そのうちの一人が、
「あいつが、スパイか」
 と小声で言ったのを聞き、私はびっくりしてしまった。
「なぜ、あんな事を言うのかしら」
 と私は、私と並んでモッコをかついで歩いている若い娘さんにたずねた。
「外人みたいだから」
 若い娘さんは、まじめに答えた。
「いいえ」
 こんどは少し笑って答えた。
「私、日本人ですわ」
 と言って、その自分の言葉が、われながら馬鹿らしいナンセンスのように思われて、ひとりでくすくすと笑った。